はぜのノート

ググってHITしないニッチな地域スポーツ情報や、日々の事を、つらつら書いていきます。

14年間のスポーツ人生をだらだらと振り返ってみる

はぜは今、地域スポーツに関する仕事に就いて6年目になります。

同業者以外に、スポーツ分野の仕事をしている、と言うと
『小さい頃からずっとスポーツマンなんやろ?』
と言われることが多くあります。

結論から言うと、

長年スポーツをしてきたのは本当ですが、運動神経は全くよくありません。

一番身体を動かしていた学生時代も、20mシャトルランで50回が限界&50m走は9秒台&上体起こしは20回弱でした。今でも、腕立て伏せは3回が限界です。二重飛びも2回までしかできないし、逆上がりに至っては1回もできません。残念ながら全部マジです。

そんな自分が、どうしてスポーツの世界に入ろうと思ったのか。
14年もの間、一度もスポーツをやめなかったのか。

まだハッキリ覚えているうちに、これまでのスポーツ人生を振り返ってみようと思います。

小学生時代:スポーツ少年団

小学3年生~6年生まで、地元小学校のスポーツ少年団に入っていました。
種目はバレーボール。父親が指導者で、母親もママさんバレーをしていたので、ごく自然な流れでバレーをはじめました。

  • 平日3回(火曜、木曜、金曜で17:30~19:30)の練習
  • 土日に練習試合、公式大会
  • 夏にキャンプ、冬にはクリスマス会、初日の出を見に新春登山などレクリエーション複数

一般的なスポ少の活動ですが、今から10年以上前ですので、体罰&練習中の水分補給NGが当たり前でした。
サーブミスをするとミスした数だけビンタ。公式試合で勝てるはずの相手に負けるとビンタ。練習中に喉が渇いて死にそうになり、トイレで手洗いの水道水を飲む…などが当たり前。指導者のビンタが耳にクリティカルヒットして中耳炎になった子もいました。
はぜはセッター(アタッカーにトスを上げるポジション)だったのでそう簡単には休む事ができず、公式大会前日に38℃後半の熱を出した時も、頓服&座薬で試合に出ました。これは強烈だったので今でも覚えています。

こんな風景を日常的に見ていた団員の親ですが、何も言いませんでした。
これが当たり前だと思っていたし、何より親が指導者と同世代で非常に仲が良かったので、むしろ「できないお前が悪い。もっと頑張れ」という風潮だった。その後、団員が卒業→親の世代が変わっていくにつれて、体罰に関する風当たりが徐々に強くなった気がします。

中学生時代:バレーボール部

はぜの地元は、小学校のグラウンドから見える場所に中学校があり、転校生・転入生がいない限り、小学校のメンバーがそのまま中学校に繰り上がります。田舎で少子化が進んでいたので維持も大変だったのか、1人1部活動強制加入でした。はぜをはじめスポ少でバレーをしていたチームメイトが、そのままバレー部へスライドしました。

  • 平日放課後は毎日練習
  • 月曜のみ筋トレ&マラソン(学校周辺を2週)
  • 日曜に公式大会

中学校体育館がバレーコート2面分だったため、バスケットボール部、バドミントン部、卓球部等と譲り合って使っていました。先輩もスポ少からの知り合いだったので、上下関係で悩む事も全くありませんでした。

しかし、顧問はバレーのルールを一切知らない素人(弓道の元国体選手)でした。中学生からバレーをはじめる生徒なら顧問と一緒に学んでいけたでしょうが、残念ながらはぜのいたバレー部は、全員スポ少で厳しい指導に耐え抜いた選手ばかりでした。中学生のはぜやチームメイトは当時、顧問は自分が経験した・指導できる種目の顧問になれるとは限らないなど知るはずもなく「顧問の癖にルールも知らないのか」とボロクソに思っていました。
しかも、スポ少時代は指導者の言われるがまま練習をこなしていたので、いきなり指導してくれる人がいなくなって、どうしていいか分かりませんでした。自分たちでスポ少時代のメニューを思い出しつつ、練習をこなしたことを覚えています。

高校生時代:バレーボール部

小学生~中学生までバレーしかしていなかったので、高校では違う種目をやろうと思いました。しかし、まあ取りあえずバレー部を見てから決めようと思い、バレー部の見学に行きました。

高校になると、義務教育でなくなるためか部活動強制の学校はほぼなく「帰宅部」という選択肢が生まれます。そのため、運動部活動の加入率はガクッと落ちます。そのため、運動部の見学に行って経験者である事を告げるとほぼ逃げられません。はぜも案の定逃げ切れず、そのままバレー部に入部しました。

  • 平日放課後は、月曜以外毎日練習(21:00まで)
  • 土曜は、ほぼ毎週練習試合
  • 日曜も、公式大会がなければ練習試合
  • 年2回県外合宿

高校の顧問はバレー経験者で、県内でも有名な指導者だったので、かなりハードな練習&試合でバレー漬けの毎日でした。

しかし、楽しかったのは最初の数カ月だけでした。

はぜは、サーブの腕を見込まれ1年生で唯一のレギュラー(ピンチサーバー)になりました。それを一部の先輩から妬まれ、いじめ(パスの相手になってもらえない程度)の対象になりました。その先輩はスクールカーストでいう上位だったため、同級生もはぜを無視するようになりました。先輩が卒業しても、同級生との間に出来てしまった溝は埋まらず、それを察した後輩からも距離を置かれるようになりました。

顧問は、チームの事は考えていても選手の事は考えていないような人でした。いじめに気付いていたうえで「おーい、はぜも仲間に入れてやれよ!」と本人の前で言うような人でした。
バレンタインには「点数をつけてやるから俺にチョコをつくってこい」と、今なら訴えられるレベルの発言を多数かましてくれました。

バレーは何も悪くない。バレーは好きだ。なのに、バレーをする環境にいる人間が嫌いで嫌いで仕方ない。このままではバレーが嫌いになる。

高校2年生の12月。
はぜはついに、バレー部を辞める決心をしました。もう限界でした。小学生から続けてきた大好きなバレーを自分の意思で辞める。多分両親も悲しむだろう。チームメイトとも廊下でどう顔を合わせていいのか分からない…
いろいろ考えた上で、それでも覚悟を決めて、担任に退部届を持って行きました。

「退部させてください」
そう言うと、担任は極めて優しい声で「総体まであと半年やから。それまで頑張ろう」と言いました。

はぜの中を占めたのは、退部させてくれない怒りでも、分かってくれない悲しみでもなく『ああ、やっぱり退部させてくれなかった』と諦めの感情でした。多分、退部届を受け取ってくれないであろう事を、心のどこかで分かっていたのだと思います。
それと同時に「1年半乗り切ってきたんだから、あと半年ならいけるか」と、どこかで吹っ切れた自分がいました。

翌日から、部活を精神鍛錬だと思って乗り切りました。
総体は1回戦負け。みんなが号泣する中、はぜは別の意味で泣きそうでした。「ああ、やっと終わった」と。

総体後は、一気に受験モードに入りましたが、勉強の合間にストレス解消と理由を付けて、放課後に友達とカラオケやカフェに行ったり誰もいない屋上で語り合いました。本当に、本当に楽しかった。こんな楽しい時間をあの精神鍛錬で2年半も無駄にしたのかと、何度後悔したでしょう。

もうバレーはやめよう。
そう思って、はぜは大学生になりました。

大学生時代:バレーボール部

大学では入学式後の入学生を待ち構え、大規模な部活動・サークル勧誘が行われます。はぜも1年生の時、両手で抱えきれないほど大量のチラシをもらいました。

どの部活動も楽しそうで、友達と「どこに入る?」「掛け持ちする?」と話す中、はぜの目が追ったのは、やはりバレー部のチラシでした。今度こそ、バレー以外の事をしようと思ったのに、それでもバレーの文字を探してしまいました。

大学には、バレー『サークル』とバレー『部』の2種類ありました。

  • サークル:月に1~2回「軽く体動かそうよ!」と集まれる人が集まるスポッチャ的な雰囲気
  • 部:週3回練習+公式大会出場もある本格的な雰囲気

楽しいバレーがしたいなら『サークル』を選べばよかったのに、はぜが選んだのはなぜか『部』の方でした。

バレー部の見学に行くと、はぜ以外に4人の同級生がおり、2人が経験者、2人が初心者でした。同級生とはその日のうちにご飯に行くほど仲良くなり、先輩たちも優しく、長年外部指導者として部活をサポートしている50代のおっちゃんもとても面白い人だった。

ここで4年間やれば、またバレーを好きだと思える。
そう確信したはぜは、再びバレー部へ入部しました。

大学の4年間は、これまでのバレー人生の中で一番楽しい時間でした。小学生で体罰を受け、中学生では顧問への不満が募り、高校生ではバレーが大嫌いになった。それでもやり続けた自分へのご褒美が大学生の4年間だったと、今も思っています。

する側から支える側に移って思う事

14年間、バレーボール一本の人生。
楽しい事より、痛い事や苦しい事や辛い事の方が圧倒的に多かった。ですが、今の仕事をするうえで当時の経験が本当に役立っています。自分のような思いをする子どもを1人でも減らすために何ができるのか、真剣に考える動機になっています。

もしスポーツの仕事に就いていなければ、黒歴史もしくは『あんな時代もあったなぁ』と酒の肴にされて終わっていたと思います。

今、するスポーツから支えるスポーツに移って思うのは、

  • スポーツは『やらされる』とただの鍛錬になる。自分が楽しいと思ってやらなければ意味がない。
  • スポーツを好きになるかどうかはそれを取り巻く人にかかっている。
  • 支える人の事も、支えなければならない。

この3つは、はぜの信念として、今日も大事にしています。